白鵬 木鶏たりえず

 昨日千秋楽の初場所は、横綱白鵬が14勝1敗の成績で6連覇、18度目の優勝で終わった。白鵬は優勝インタビューで、まず冒頭に15日間応援してくれたファンへのお礼を述べて頭を下げた。そして、優勝については「相撲界の隆盛のためにがんばった」と。
 次に、歴代2位名横綱大鵬の6連覇に並んだことに触れ「恩返しができた」と大先輩に敬意を表した。優勝した朝次女が誕生したが、テレビ出演等で「初対面は今晩遅くなる」と、あくまでも「私」は後回しにする謙虚さである。これだけでも、名実共に「名横綱』の風格充分である。
 双葉山の69連勝に挑戦していた白鵬は先場所(九州場所)2日目に、関脇稀勢の里に破れ63連勝でストップした。直後のインタビューで白鵬は「スキがあった。勝ちにいった」と語った。翌日の朝日新聞スポーツ欄の見しは、白鵬 木鶏たりえず とあった。しかし、記事の中では「木鶏(もっけい)たりえず」については何も触れていない。
 ご存知の通り、この見出しは双葉山が69連勝で敗れた時「イマダモクケイ二オヨバズ」と人生の師として仰いでいた陽明学者の安岡正篤(まさひろ)宛に打った電報に拠るものである。
 この「木鶏」の話は中国戦国時代の思想家荘子(そうじ 紀元前368〜286)が書いた「荘子外編」にでてくる。木鶏は、木彫りの鶏のように全く動じない最強の闘鶏のたとえである。
 闘鶏を訓練する名人が王の闘鶏を預かることになりました。名人に預けて十日、王は名人を訪ねて、かの鶏はもう闘えるかと尋ねました。名人の答えは、「まだまだです。虚勢をはってばかりいます」 更に十日経って王が名人に尋ねると、名人の答えは、「まだまだです。相手の動きに心を動かされてしまいます」 
 更に十日後、再び王が名人に尋ねるとその答えは、「もうよいでしょう。王の鶏はまるで木鶏のようで、どんな相手と対しても乱れることはありません。この鶏と対すればどんな闘鶏も気力を失い、逃げ出していきます」
 昭和歴代首相の指南役を務め財界の師と仰がれた陽明学安岡正篤(1898〜1983)は、横綱になる前の双葉山と一諸に飲む機会があり「君もまだまだだめだ」と言うと、双葉山は「どこがいけないのですか」と慇懃に尋ねた。そこで安岡正篤は「木鶏」の話をした。双葉山はそれ以来「木鶏」の修行を始め、69連勝の大偉業を残す大横綱になった。
 昭和14年1月、安岡正篤は学会のためにヨーロッパへ船旅にでていた。インド洋を航行中にボーイから電報を受け取った。「イマダ・・・・・」という双葉山からのものであり、連勝が止まったことを知った。
 白鵬にとって双葉山は歴史上の人物であるが、この偉業を通して偉大な横綱であることは承知し尊敬している。多分誰かに「木鶏」の話も聞いているはずである。今場所も唯一一敗を喫した稀勢の里について聞かれると「彼の部屋に泊まり込んで稽古します」とここでも謙虚である。まさに木鶏に最も近い大横綱である。
 「木鶏」の内容は、政財界、学会、教育界、スポーツ界等で指導的立場にある人、こらからなる人の指標にして欲しいものでる。私は幸いにも現役時代に安岡正篤の存在を知り、著書も購入し学んだが、木鶏たるトップにも人物にもなれずに終わり、今日に至っていることを忸怩たる思いでいる。白鵬に託すのみである。

人物を修める (致知選書)

人物を修める (致知選書)

この本で安岡正篤双葉山との話を紹介している。