被災地・宮古へ

 6月7、8日のこと、私は「肉まん隊」ボランティアとして岩手県宮古市へ行ってきた。

 これは、埼玉県松伏町や他の工場でで麺や肉まんなどを製造し全国規模の市場を有する菅野製麺所が「被災者の皆さんに自社製品の肉まんを食べて元気を出してもらいたい」との願いから始めた支援事業である。
 勿論、社長の菅野さんの発想によるもので、被災地の復興の足がかりになってほしいという法人としての社会貢献である。4月よりすでに埼玉県内各地の避難所やいわき市二本松市石巻市、そして今回の宮古市など10カ所を訪れて、目標の「肉まん3万個」を達成した。
 今回の目的地は宮古市田老地区。社長と2人の社員がトラックに1000個の生の肉まんを積み、そしてその手伝いボランティア我々5人はもう一台の車に乗り込み現地へ向かった。7日は盛岡に一泊し、翌8日早朝宮古へ向かった。

 現地には、予定より40分ほど遅れて到着。すでに「肉まん隊」の情報が地域に流れていて十数人が会場の田老福祉センターに集まっていた。あいさつを交わして、すぐ準備に取りかかった。5段重ねのせいろう(蒸し器)を2カ所に設置し、一度に250個を蒸かす。15分で蒸し終わると、小袋に一個ずつ入れて配るという段取り。
 50人ほどの中高年の人たちが2列に並んで待っていてくれた。お孫さんを連れている人もいる。一見、皆元気そうだ。話すことばも声高だ。会話から漁師たちのようだ。そういえば長年太陽の下で働いているせいか顔は真っ黒だった。一人につき4個ずつ配ることに決定。
 ふ〜ふ〜しながらその場で食べる人もいて、「うまい、うまい!」と。一人で4人分20個という人もいて、あっという間に1回目の250個がなくなった。すぐに2回目の準備。
 会話の端々に地震津波がどんなに怖かったか、を窺い知ることができたが返す言葉が見つからない。ここ田老福祉センターの責任者Sさんは家を流され、まだ避難所暮らしをしていて、今身につけているものはすべて支援物資である、という。
 2回目の肉まんも人気上々、数分で“完売”。中には、待ち切れず、「生のままほしい」という申し出もあった。今は電気も使えるので、家で蒸して食べられるという。
 最後は足りなくなって一人4個ずつ配れず、何人かには一人1個で我慢してもらい持参した1000個をすべて配れた。少しして、持ち帰って食べた人が「とてもおいしかった」とわざわざお礼を言いにきてくれた。また、「さっきはどうも・・・」と言いながら海男と思われる人が自転車で通り過ぎた。
 個々人の震災の被災状況は分からないが、敢えて顔にも態度にも出さないでいるのかも知れない。気丈そうに見えても内心は不安で一杯の人もいるはずだ。「肉まん」を通して、私たちは心の連携・連帯、あるいは絆を培えたらと願いつつ訪問したのであったが・・・。
 ここ田老地区は、リアス式海岸の小さく切り込んだ湾の奥の町で、4000人余在住している。明治・昭和の時代の大きな津波により多くの人が犠牲になった。この苦い教訓から、1979年(昭和54年)、高さ10m、長さ2433mの防潮堤を作った。「万里の長城に囲まれた町」とも言われていたが、今次津波はこれを破壊し住宅を襲ったのである。
 日頃の訓練が生かされて死者は他地域に比べると僅少であったが、避難者は今でも2400人余に及んでいる。大きな瓦礫の片付けはかなり進んでいるものの、一面荒野と化した住宅地はどうなるのか、どうすべきか、また、船を流された漁師たちは復活できるのか、重い気持ちのまま宮古を後にした。
 社長が掲げた「肉まん隊」の所期の目的はかなり達成されたと思う。物心両面からの支援として実に立派であり敬意を表したい。
 私自身、前回の埼玉県内避難所での「肉まん隊」と合わせて2回参加させてもらったが、被災県岩手出身者としてこの現実を直視しつつ、被災者の皆さんとの連帯感を持ち続けたい。

田老地区の被災地。 高台の学校は1階まで浸水したいう。