私の中の韓流ドラマ『禹長春物語』(前編)

 禹長春(ウ・ジャンチュン)は1898年(明治31年)、韓国人の父と日本人の母の間に広島の呉で生まれた。父は亡命者だったことから、長春が5歳のとき暗殺された。このときから彼の辛い人生が始まる。
 1919年(大正8年)、母の手一つで育てられた長春東京大学の農業実科(今の専門学校にあたる)を卒業し、農林省の技官になった。後に、「種の合成」の学位論文により農学博士になった。しかし、大卒でないことからか技師には昇格せず技官のままだった。
 長春農林省をやめて、京都の有名な某種苗会社へ転身し、育種学に没頭することになった。日本人の妻の間に6人の子どもがおり、経済的にも、また学者としての評価も高く、すべてにおいて恵まれていた。

1950年、博士渡韓直前の家族 左端が妻、小春さん 東洋経済日報より
 1950年(昭和25年)、長春は突如、最愛の妻と6人の子どもを日本に残し、単身祖国・韓国へ渡った。行き先は釜山であった。彼はそこの園芸高等学校の教師になって生計を立てながら、やはり農学の研究を続けるのである。
 長春の長年の研究が実って、遂に白菜や大根の品種改善に成功し、大量生産も可能にしたのである。キムチをはじめ農産物の需要の高い韓国にあってはまさにノーベル賞にも値する偉業である。釜山には農業試験場が作られ、済州島はみかんの生産地に、江原道の大関嶺はじゃがいもの生産地にと、韓国の農業改革は進展していった。
 1953年、長春は広島の呉にいる母が危篤であるとの報せを受けた。彼はすぐ呉へ飛び立とうとした。しかし、李承晩大統領は「禹長春は日本へ帰ったら二度と韓国へ戻らない」との判断から、彼の出国を認めなかった。間もなく、長春の母は亡くなった。81歳であった。長春が研究室で号泣しているのを多くの人が目にしている。
 禹長春が、日本での安定した家庭生活と名誉を捨てて韓国へ渡った理由は何か。それは「なぞ」であるとされている。しかし、彼の伝記を書こうとする作家たちはその「なぞ解き」にかかった。
 韓国では、戸主は男が務める、という先祖代々の言い伝えがあり、今でもそれは守り続けられている。男は家を継ぎ祖国を守ることを本懐とする。長春の父・禹範善(ウ・ボンスン)はそれを果たせなかった。長春は父の年令に達してはじめて父が果たせなかった務めに気づき、自分自身の分も含め祖国に骨を埋めることを決意したのではないか。
 長春が韓国へ渡る直前、呉市にある父の墓前に頭を垂れている写真がある。彼はその時、亡き父に「祖国へ帰ること」を誓った。「今までは母の国・日本のために努力した。これからは父の国・韓国に骨を埋めるために祖国へ帰る」と。      (つづく)