高山の頂には美木なし

 我が国では、またぞろ短命首相の交替劇が始まった。「またぞろ」とは、「その時機は過ぎたと思われることが復活することを表す」[多く驚きあきれる気持を込めて用いられる](国語辞典)の意。
 確かに、自公政権時代の末期は3人の首相がほぼ1年ごとに交替した。民主党政権になり、鳩山首相がそれを批判して、衆議院議員の任期4年を務めると宣言し、やっと、首相の短期交替劇は終わった、と思いきやなんと1年で交替。
 菅首相に替り、「今度こそは・・・」と半信半疑ながら思っていたら、1年そこそこで鳩山さんが「早く辞めなさい」と言う有様。文字通り、あきれてしまった。そして、今まさに次の首相選びが始まろうとしている。「どうせ、1年で交替だろう」と揶揄されながら。とは言え、これから首相の座を目指す人に、名もない一人の国民として物申しておきたい。
 一つは、「高山の頂には美木なし」ということわざ。政治の世界に置き換えると、「高山」は政権トップの座「首相」。もともと高山は強風や低温などの気象条件で、植物は育ちにくい。たとえ、芽を出してもそう簡単には育ち難い。だから、山頂登山者はそのことを弁えて、服装や心の備えが必要とされている。それでも遭難者が出てしまうほど厳しいところなのである。
 首相の座も同じこと。まさか、「高山は、見晴らしがよく、きれいな花や樹木があり、楽園のようなところ」と極め付け「だから登るんだ」などと思い違いしていないだろうね。
 もう一つは、「木鷄」たる人物か、ということ。ご存知、「木鷄」とは、木彫りの鶏のように全く動じない最強の闘鶏のたとえである。「木鷄」に至るまで厳しい訓練を通して鍛えることの必要性を説いたものである。これは、中国戦国時代の思想家・荘司(そうじ 紀元前368〜286)が編んだ「荘司外編」に出てくる名言である。
 69連勝で敗れたあの名横綱双葉山が自戒の気持を込めて「いまだ木鷄たりえず」と語ったことは有名。政治家の皆さんはよく知っているはず。としたら、ご自身、「木鷄たる人物か」心に手を当てて聞いてみるといい。一歩譲って、首相になったら「木鷄」と言われるよう努力できるか、自問してみるといい。
 せめて、「高山に・・・」の本当の意義と、双葉山にして言わしめた「木鷄」たる人物とを弁えて首相になってもらいたい。単なる、数や人脈でなって欲しくないし、今度こそ4年間持つ首相であってほしい。