生活の音

 我が家の「生活の音」は妻が雨戸を開ける音と庭先の“チュンチュン”とう雀の啼き声で始まる。やがて台所から水道の音、まな板の音、食器の音、電子レンジの音、そしてラジオも聞こえてくる。外は、散歩で往き交う人の足音やあいさつの声、通勤の車も往き交い、エンジン音が交錯する。今は春休みで聞くことはできないが、登校する子どもたちのにぎやかな会話が心地よい。
 ゴミを出す日は“ガァガァ”とカラスが大きな啼き声で仲間を呼び寄せる。このところゴミはシートやネットなどで覆われているのでカラスも多くは寄り付かなくなった。回収車が来るともうカラスの姿はない。我が家の上空を北へ向かう航空機が飛ぶ。いつも同じ航路を同じ高さで飛んでいくので音も同じように聞こえてくる。きょうはヘリコプターが旋回してうるさかった。何かあってのことだろう。
 「音」と一緒にしては失礼だが、時折聞こえてくるおとなりの赤ちゃんの泣き声。赤ちゃんといってももう一歳になる。女の子で成長が早く可愛らしい。泣く回数も少なくなり、その分おしゃべりをしているのかな。少子化時代ゆえに本当に貴重な存在である。ちなみに10軒のとなり組で子どもがいる家庭は3軒しかない。
 きょうのラジオからダ・カーポの「宗谷岬」「春の小川」「早春賦」など春を待望する曲が流れていた。そして、いつも聴いている「人生相談」。回答者の弁護士の話はとても優しくわかりよく、相談者も納得した様子。42年も続いたこの番組は今週末で終わる。まさに「生活の音」が一つ消えることになる。NHKラジオの「ひるの憩い」もかなりの長寿番組だ。子どものころから聴いているので私にとっては「生活の音」そのものである。
 暖かいので妻と散歩に出た。あちこちに遅咲きの白梅・紅梅が今咲き誇っている。香りもいい。住宅街のせいかあまり人通りもなく静かで、小さな声で会話する。足音も控えがちに・・・。休憩を兼ねて神社へ。神殿で二礼二拍一礼の儀。二拍の音が境内に響いた。リハビリのため歩行訓練している人にも出会った。近い将来心地いい足音を残して歩けるようになって、と祈る。
 日中の住宅街はどこも人通りも車も少ないので静かだ。つまり「生活の音」が少ないということ。いろんな音を提供してくれる子どもたちが少ないことや若い人は仕事へ出かけ、留守番は高齢者なので無理もない。それでも夕刻になると、あちこちで戸締りの音や帰宅を急ぐ靴音や自転車のブレーキの音が賑々しい。
 国道や県道の沿道の住民は車の騒音で悩まされている。旧市街は買い物客がいなくなりひっそりしている。かつての生活音が消えかかっている。何かアンバランスの様相である。思えばすべて人間が作り出した現実である。せめて家庭内で、あるいは地域で生活を奏でる心地よい音を存続していきたいものだ。その中心は物音もさることながら人間が発する声であり、会話であろうと思う。
 
     近所の庭先の紅梅、白梅。例年よりかなり遅い。