読書アラカルト(7)「ハーバード白熱教室講義録」上下 マイケル・サンデル著
この書は、NHK教育テレビで2010年4月4日から12回シリーズで放送されたハーバード大学政治哲学者マイケル・サンデル教授による「ハーバード白熱教室」を収録したものである。テレビでも何回か見たが、確かに知的興奮を伴い「白熱」する。学生の意見を引き出しながら、対話・問答法で講義を進めていくのであるが、この方法はギリシアの政治哲学者ソクラテスがそうしていたという。
教授は冒頭、「哲学と聞いただけで『難しそう』なんて言わないで。哲学は、ごく身近な設問から深めていくことができるんです。12回にわたる講義のテーマは、『Justice(ジャスティス、正義)』についてです。正義とは何か、日常の誰にでも起こり得ることの中から考えていきます」と柔らかく呼びかけているが、難解に立ち止まることしばしば。しかし、一読に値することは確かである。
ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業〔上〕(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: マイケル・サンデル,NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム,小林正弥,杉田晶子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/02/09
- メディア: 文庫
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「正義」について考えるためにたくさんの事例を上げているが、その一番始めの例を紹介するとーーー。
君は路面電車の運転手で、時速100キロのスピードで走っている。君は、行く手に5人の労働者がいることに気づいて電車を止めようとするが、ブレーキが利かない。君は絶望する。そのまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。君は「何もできない」と諦めかける。が、そのとき、脇に逸(そ)れる線路があることに気づく。
しかしそこにも働いている人が1人いる。ブレーキは利かないがハンドルは利くので、ハンドルを切って脇の線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。ここで最初の質問だ。正しい行いはどちらか。君ならどうする?多数決を取ってみよう。
「1人を殺せばすむところを、5人も殺すのは正しくない」という理由で、脇に逸れるが大多数で、直進するはごく少数、という結果になったが、それぞれにその理由を聞いていく。それでも納得できない人のために、また別の例をいくつか出して整合性や矛盾を追求しながら議論を深めていく。
ここで2人の哲学者が登場する。「何をするのが正しくて、道徳的か」について、一つは「行動の結果として生じる帰結で決まる」という考え。つまり、ここでの例では、「1人よりも5人が助かるほうがいい」という帰結主義的な道徳的論法。この考えを代表するのがジェレミー・ベンサム(英・政治哲学者)。
一方、「たとえ5人を助けるためであっても何の罪もない人を1人殺すのは定言的に(無条件に)間違っている」という考え方。これは、ある種の義務や権利の中に道徳性を求める定言的な道徳原理と言われ、イマヌエル・カント(独・哲学者)が唱えているものである。いずれも18世紀の哲学者だが、路面電車の問題についてはどちらが正しいかの結論はでないまま、議論を通していろいろな思考が続いていく。
路面電車の例は道徳的ジレンマの例として鮮烈的な印象を受けたのであるが、サンデル教授がなぜこういう例を挙げているかというと、生命に対する見方を論じることが、まさに正義に対する考え方を掘り下げるために良い例だからだとしている。
教授はこうも言っている。「普通、われわれが常識的と思っていることを考え直すことによって世界の見方が変わるということですね。と同時に、哲学には、何が結論や現実に対する意味なのかわからないものも多いが、実践的な意味を持つような議論を引き出したい」「哲学を議論するのは、私たちの日常生活および政治的生活における哲学的な問題を明確にするためだ」と。
具体的には、今日の政治哲学は市場問題や戦争の問題にしても、ややもすれば生命の問題、善の問題を見失いがちであり善をはじめとする倫理的・精神的な問題を直視し、それを我々が考えていくことが重要だと指摘している。
サンデル教授は最終講義「善き生を追求する」と題して、この全講義のまとめをしている。
正義の観念については、ジョン・ロールズ(米・政治哲学者1921~2002)の「正義論」から「それは自明の前提からは導きだされ得ない。多くの考慮事項が相互に支え合い、すべてが一つの首尾一貫した見方に整合することで、正当化される」という考えを示している。
これを路面電車の問題にあてはめると、運転手の行為は殺人になるのか、1人か5人かで生命を論じていいのかなどから、結論は出しにくい。しかし、サンデル教授はこのような議論を繰り返していくことで正義を見出すことが重要だと強調。
善については「私たちは異なる道徳的・宗教的信念が存在する多元的な社会に暮らしており、人々の間で善についての合意は存在しない。だから、特定の目的や善に依存しない、正義や権利の原理を見つけようとするのだ」とし、善よりも正義が優先するという考えだ。しかし、「正義を議論するうえで善について議論することは避けられない」というロールズの考えに同調。
人間にとって「どう生きるべきか」という問が最大の関心事である。サンデル教授は「善を伴う正義」を考察することであり、私たちは日々、その問に対する答えを生きていることを提示して本講義を終えている。
本書は、文庫本で、上・下各定価700円+税 早川書房より出版されている。