なんとしても「体罰」は克服しないと・・・。

 大阪市立桜宮高校で体罰を苦にして男子高校生が自殺した。本当に痛ましく、取り返しのつかない事件である。過去にも同じような事案があったにも関わらず「なぜ再発を防止してくれなかったのか」と高校生は死をもって抗議したのだと思う。死の抗議の波紋は大きく広がっている。
 間もなくして全日本女子柔道監督の暴力(体罰)に対する選手たちからの告発が表出した。最も保守的と言われる柔道界にあってこのような告発がでてきたのも、高校生の死を無にしてはならないという正義と自立の抗議であろう。
 こうして今や「体罰」は国を上げて大きく社会問題化している。今度こそ本気になってあらゆる場から「体罰(暴力)問題」を克服し、「野蛮な国・日本」のイメージを解消したいものだ。
 ご存知の通り、昭和22年公布の学校教育法では体罰を禁止している。第11条「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」。学校教育法は、教育基本法とともに日本国憲法の精神に則り定められているもので、憲法そのものである。しかし、公布以来66年たっても未だに体罰が無くならないのはなぜなのか。
 ある識者によると、「愛のムチを振りかざす指導者側の容認論は大いに疑問だが、もっと気が重いのは、暴力を受けた側から暴力容認を聞かされるときだ」と言い、「愛のムチ」が依然として存在していることを危惧している。その上で「自分で判断してプレーして失敗を体験し、またトライする。その繰り返しこそがスポーツであり、だいご味ではないか。他人に力で何かを強いられ、やらされることとスポーツは相いれない」と指摘する。
 ある大学教授は、「体罰や暴力によって身体能力は一時的には向上することは、経験的にも確かなことである。しかし、それはまさに『一時的』であり、本来、将来的にさらに伸ばせる能力をそこで摘んでしまうことにならないだろうか」と指摘。大学入試の面接で、高校で実績のある受験生に「大学でも続けるか」と聞くと「とんでもない」という顔をして「断られた」という。高校時代にスポーツ能力のポテンシャルまで消耗している証ではないかという。
 さらにある識者の「教育は、人を育てるために教えることであって、教えることしか考えないと体罰に走る可能性がある」という見識も正鵠を得ていると思う。
 学校における教師の体罰は、子どもが自分の思う通りに行動しないときに感情的になって犯す場合が多いのではないか。しかし、教師はもうそれは許されない。体罰は自らの指導力不足をさらけだしていると思うべきだ。もっと厳しく「教師失格」と自戒すべきだ。体罰に頼らない優しい指導でも効果を上げられる教師に変身してほしい。子どもを親身になって励ましていける教師でありたい。
 そのためには多くの先達や書に学ぶという時間を日々たくさん持ちたいものだ。そして、教師という「誰でも一度はやってみたい仕事」に就いていることの意義を噛み締めてほしい。


❏「3月」の異称・・・・花月、嘉月、櫻月,稱月、禊月,蚕月、桃月、宿月、病月、花見月、春惜月、夢見月、晩春、暮春、春末、彌生、末葉、穀雨、鴬時、清明、桃禄、