きょうからお盆

 我が家の菩提寺は、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗。今朝6時すぎ、仏さまを「お迎え」に行って来たところである。盆入りのきょう、お参りに往き交う人で、お寺は一年中で最もにぎわう日である。お盆は、日頃せわしい生活の時間を割いて、ゆっくりと祖先を偲び、祖先に学ぶ余裕の時間としてありがたい。同時に、今生きている親やきょうだい、隣人同士も互いにそうあるべきである、と教示している。
 親鸞聖人は「大無量寿経」という浄土教典を著しているが、この「無量」とはどういうことを意味するのか、ある住職の書によると「はかることができない(計測不能)」「計測無効」をあらわしている、という。私たちは何かと「数量化」して、比較したがるが、それには何の意味も価値ももたない。数量化すべきでない世界を我々に投げかけており、従って、どのいのちも無量であって、計測や数値による価値付けはできないという教えである。
 現世はどうか。数量化により比較し、序列化し、相対的位置を問う日々である。成績が良い、お金持ちである、財産があるなどの数値を全人的な評価にしていないだろうか。その数値が示す事実と結果は認めるにしても、即、人間性評価になるのか、してよいのか、迷うところである。
 数値そのものに浮かれて、数値を超えた人間として大事なものに気づかなくなることを憂う。独りよがりになって、他を思いやる気持ちがなくなったり、人間としての「善」を失ったり、あるいは、それがもとで親、きょうだいが争い、人間関係がめちゃめちゃになったり、といった例は数多であることからも、「無量」が意味するものを噛みしめておきたいと思う。
 日本中に、無量寿院とか無量院〇〇という名のお寺がたくさんある。宗派はともかく「無量」の意味するものは同じなはずである。そのお寺に出会ったらちょっと立ち止まって、「無量」を思い起こし、現世に照らして見るようにしたい。


今朝の我が家の花々