きょう、父の命日

 父は昭和63年のきょう、自宅の庭先で掃除をしていたが、「気持ちが悪い」と言って家の中に入り、こたつに横たわると間もなく意識を失い昏睡状態に陥った。すぐ病院に搬送されたが数時間後に息を引き取った。享年81歳だった。
 その2年ほど前に「肺がん」が見つかり入院。手術を勧められたが断り、抗癌剤による治療をしていた。半年後には直径7cmもあった肺がん腫瘍が2cmに減少し、しばらくして通院治療を条件に退院、自宅で過ごしていた。通院の理由は白血球不足により輸血が必要だった。
 子どものころ、父にはよく「げんこつ」をもらった。小学校4年のとき、あることから友だちと喧嘩になり、私が友だちを倒して馬乗りになり、顔を何発も殴った。彼が降参したので喧嘩は終わったが、顔を殴られた友だちの両目が腫れて視界が悪くなり、歩けなくなった。担任の先生が友だちを自宅へ送っていき、喧嘩があったことを伝えた。
 その夜、友だちの父親がわが家を訪ねてきた。早速、「うちの子どもがお宅の息子に殴られて顔も目も腫れて、歩けなくなった」と、父に抗議した。すると、私はすぐその場に呼び出されて、いきなり、げんこつやらビンタが飛んできて、謝罪するよう命じられた。父は、他人に迷惑をかけたり、後ろ指を差されることを非常に嫌っていた。ゆえに、喧嘩すること自体許せなかったのである。私は、それ以来、取っ組み合いはもとより口喧嘩もしなくなった。
 反面、子煩悩な一面もあった。学校の運動会には必ず応援にきて、我が子が走るときは大声でゲキを飛ばした。100m徒競走の時、カーブに差しかかると、父がが飛び出してきて私の横を並走して、一緒にゴールのテープを切った。私は走ることには自信があったので、余計なことをしてくれて恥ずかしかったが、父は皆の前で得意顔をしていた。
 7人兄弟だったが、それぞれに子育てをしていたように思う。長兄は農家の後継者として、二男以下はいずれは家を出て自立するように、また、3人の女姉妹は花嫁修業のために洋裁や農業の高校へ進学させた。結局、長兄以下全員、主に首都圏にでて生計を立てることになり、父は一安心した。
 あとは、お盆や正月に子どもらが帰省してくるのを無性に楽しみにしていた。子どもや孫の成長ぶりを確かめては満足していた。我々子どもが家に着くと父は正座して迎えた。なんと、丁寧に頭を下げて「よく来てくれたな」と言って、歓迎した。親がわが子に両手をついて「あいさつ」する律儀さは最後まで続いた。これだけは今もなかなか真似られないでいる。
 7人の兄弟のうち、父は東京の次兄が大好きだった。ところが、その次兄が55歳で急逝した。父は強烈な衝撃を受け、食欲が無くなるほどだった。葬儀には参列しなかったが、はるか東京の空を仰ぎ、手を合わせていた。それから8日後のきょう、父は倒れた。子どもに先立たれた心労が死を早めたようだのだろう。合掌。

*四季の異称 「春」 芳春、青春、清春、陽春、九春、三春、先春、光春、規春、芳節、良節、嘉節、歳始、蒼天