親不知子不知(親知らず子知らず)

 今月初旬、現役の頃、アメリカ・カナダへ英語研修に行った仲間数人と新潟へ旅行をした。主に、日本海沿岸をチャーターしたジャンボタクシーで見て回った。お目当ては、日本海の新鮮な魚を食べることと夕陽を見ること、そして、「親不知子不知」の絶壁に立ってみたい、という欲張りの旅。仲間はみんな70代から80代で、愛知(2人)、東京、山形、新潟、そして千葉の私。
 1泊目の宿は寺泊。目の前が日本海で、潮の匂いがする。近くには魚市場があり、遠くから車で買出し来るほどによく知られている。宿の料理も前評判通り、お膳は魚料理で埋め尽くされ、食べきれない。冷たい生ビールには十分な肴である。しばらくして、女性の声で館内放送・・・「ただいま、夕陽が大変きれいです。どうぞ、屋上へあがってごらんください!」

 翌日は、日本海を右に見ながら一路「親不知子不知」海岸へ。沿線の景色を楽しむために高速道路ではなく国道8号線を走る。トンネルや急な坂道、カーブが多い。幕府直轄地であった越後出雲崎。また、ここは良寛さんの生地である。良寛の里美術館や良寛禅師墓碑のあるお寺等は車窓から眺めるだけで通過。
 いよいよお目当ての「親不知子不知」海岸へ。この名称の由来は、一説では「断崖と波が険しいため親は子を、子は親を省みることができないほど険しい道であることから」とされている。越後国越中国の間を往来する旅人はこの断崖を海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道最大の難所であった。ある時は波が荒く一週間も海岸の洞窟で退避する旅人もいたという。
 場所を説明すると、JR北陸本線  市振駅ーーー親不知駅ーーー青海駅の約15km。親不知駅を中心に市振駅側を親不知、青海駅側を子不知と呼び、総称して「親不知子不知」と呼ぶようになったという。
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親不知記念広場には展望台がある。広い日本海と断崖が見える。海側にそそり立っている感じの断崖はおよそ80m,見下ろすと身がすくむ。今では、断崖に国道8号線(1988年・昭和63年)と一部海上橋の北陸自動車道が(1966年・昭和41年)が開通し、富山、石川そして京都方面へとつながっている。右は、「愛の母子像」
 記念広場からさらに1kmほど先に、コミュニティロードと称して、明治16年に開通した狭い道路が保存されていた。岩盤には「如砥如矢」と彫ってある。「砥石のように平で、矢のように真っ直ぐ通れる」と道路が開通した喜びを書き残したものである。
 快晴、波静かでコバルト色の海面。母子の悲痛な叫びは想像もつかないが、日本海はひとたび荒れると容赦なく何日も続くという。小説「越後つついし親不知」「雁の寺」[飢餓海峡」などで知られる作家・水上勉は「激しい断崖と荒波の海しか見えない親不知が大好きである」とある書に記している。
 
「親不知子不知」をモチーフにした合唱曲がある。中高校生に人気が高く、合唱祭等でよく歌わている。You Tubeでどうぞ。5分41秒。