銀メダリスト猪谷千春さん

 50〜60代の人でも猪谷さんを知らないので、若い世代の人たちは殆ど知らいないだろうと思う。スキーに興味のある人なら世代を問わず「聞いたことがある」はずである。
 猪谷さんは、1956年(昭和31年)、第7回冬季コルティナダンペッツォオリンピック(イタリア)男子回転で銀メダルに輝いている。その時の金メダリストはトニー・ザイラーオーストリア)である。それ以来、日本では冬季オリンピックでこの種目(回転、大回転、滑降=アルペン種目))でメダルを取った選手はいない。
 そのころ、猪谷さんはアメリカのダートマス大学3年生の留学生で、25歳だった。日本よりスキー環境がよく、素質を磨くためにも留学の道を選んだ。日本では、父親の厳しい練習に耐えて、小学生の頃から大人に交じって対等の成績を残す秀才であったが、アメリカへ留学することでさらに実力をつけて、オリンピック選手に選ばれた。
 父親はスキー技術の練習はもとより躾も厳格であった。従って、アメリカに留学しても外国人との生活は比較的容易であったという。猪谷さんは銀メダルを取ってからも、1958年の世界選手権で回転銅メダル、大回転6位の成績を収め、海外の有名な選手たちの仲間入りを果たした。
 1982年、IOC(国際オリンピック委員会)委員になり、1998年の長野オリンピック開催に尽力。プレゼンターになり、アルペン種目の入賞を乞い願ったが、皆川賢太郎が4位、湯川直樹7位に終り、いまだに日本では猪谷さん以外にはメダリストが誕生していないのである。その後理事になり、2005年には副会長になった。2011年、80歳定年制によりIOC委員を退任して、名誉委員に。2012年、東京都スキー連盟会長に就任、現在に至っている。
 猪谷さんは、スキー人口の減少を誰よりも憂いている。その打開策としてジュニアスキーの育成を唱え、実践されている。スキーヤーの裾野を今のうちから拡大しおくという原点に立ち返った思考である。
 幸いにも、私も役員の一人としてスキー関係の会議に出席すると猪谷さんを目の当たりにできる。近づくと必ず握手をし、挨拶を交わす。すべて、猪谷さんのほうからで恐縮している。また、ある会議の挨拶で「役員のみなさん、大変ご苦労さまです。一つ気になることがあります。それは、どうして女性の役員がいないのですか。スキー場には女性がたくさんいますのに」。役員一同、心身が凍てつく思いであった。確かに、その日の会議には女性は一人もいなかった。国際的な視野に立ってのご指摘である。

 スキー界では猪谷さんの存在が相当に大きい。83歳には見えない若さがある。背筋も伸びていて、話し方も歯切れよく、爽やかである。「未来においてもスキーを楽しんでもらえるような環境を残していくのが我々の使命である」。銀メダルという栄光をかなぐり捨てて地道な活動をされている猪谷さんに学ぶべきことが多い。