戦地からの「郵便はがき」

 父は昭和17年、妻と二人の娘を残して35歳で出征した。ここに戦地から母宛の一通の郵便はがきがある。
 皆元気か。◯◯子も△△子も元気で歌を歌ったりよちよちあるいている様がハッキリとわかるような気がして小生を元気づけてくれる。実父の所へは最早行けなくなったと思っては居るが忠孝一如の眞理も如何なる道をふむべきかも良く承知しているつもりである。留守中は何かと辛い事もあるだろうが何卒身体に注意して頑張ってくれ。小生の事は心配無用。日頃運動をしていたおかげで身体は丈夫で意気健剛なり。(なお、文末に括弧書きで何軒かの親戚名を記し、よろしく伝えてくれ、と書いてある)
 ◯◯子は長女で5歳、△△子は二女で1歳。戦地で妻からの手紙を受け取って書いてきた返信である。発信年月日も発信地も記されていない。戦地は派遣部隊名から南方であることだけは分った。父は某醤油会社に勤務していたが、日本は戦争が次第に劣勢になり、15歳の少年や35歳という兵士としては高齢者も戦地へ送られた。
 戦地からの郵便はがきは5通ほどあるが、戦争の状況やどこで戦っているのかは一切書かれていない。妻や子ども達、親戚の人たちのことを案ずる内容が主で、最後に必ず、精神一到国のために戦うことを誓っている。しかし、このはがきにも記されているように、如何にして精神統一を図り「忠孝一如」や「精神一到」を貫けるか苦悩している様子が窺える。
 戦地では常に誰もが死の恐怖にさいなまれる。兵士といえども死と安易に向き合えることはできなかったと思う。戦争とはこれほど酷いことであり、どんな名言を以ってしても正当化できない所以である。
 父は、昭和19年11月23日、ニューギニア・ハルマヘラ島の椰子の葉陰でマラリアに罹り戦死した。行年37歳。たまたま、軍医として派遣されていた同市内の医師に看取って頂き、遺髪を持ち帰ってもらった。マラリアと分かっても治療薬が全く無かったとのことである。
 二人の子どもを抱え戦争未亡人となった母は25歳。それ以来、間もなく終戦になったが生活と子育てで苦難の人生を強いられた。夫婦、親子の絆、家族の団欒も絶たれた。やがて娘達はそれぞれ結婚して5人の孫と2人のひ孫に恵まれ、母はやっと安堵するときに巡り合えた。戦争のことや父のことは多くを語ろうとしなかった。思い出すだけでも辛かったからだと思う。それでも仏壇の引き出しには戦地からの郵便や出征時の父の写真を大事に保管していた。
 母は昨年12月、老衰で亡くなった。98歳。仏壇には父母の位牌が仲良く立ち並んでいるが、戦争の影はかき消すことはできない。ちなみに、二女は私の妻である。折しも、今、秋の彼岸。

お彼岸初日、それぞれのお墓にはきれいな花が手向けられていた。菩提寺彼岸花も満開。