読書アラカルト(18)「知的余生の方法」 渡部昇一著 

 著者は、39年前、118万部もの大ベストセラーになった「知的生活の方法」で一世を風靡した。この度は「知的余生の方法」として発表。今は上智大学名誉教授で、もう85歳になる。
 内容は「知的欲求」をベースに多岐にわたっているが、「自分の世界の自覚」についての一節が興味深かった。著者の説を要約すると・・・。
 虫けらはやはり自分の世と思い ーー阿部佳保蘭  毛虫は、住む木の種類が決まっているという。Aという毛虫はA'という木の葉しか食べない。まわりにどんなにおいしい木の葉があろうが、A'という自分の木だけが全世界だと思っている。また、象の皮膚の皺につく寄生虫は、自分がくっついているその皺だけが自分の世界で、象がどのような形をしている動物かも知らない。
 哲学者ハイデガーの哲学には「世界内存在」という概念があるという。「人間は世界内存在である」というような言われ方もされている。この「世界」とは人間の五官が認知できる世界ということになる。「人間は、象の皮膚の皺に住む寄生虫のようなものだ」とすると、その寄生虫の存在も「象の皮膚の皺という世界内存在」ということになるのではないか。
 しかし、人間は象の皮膚の皺につく寄生虫とは違う。人間は自分が五官(縦、横、深さ、時間等)の世界に閉じ込められていることを知りながら、そこから脱出しようという努力をしたり、脱出することを祈ったりするからである。そして、それに成功している人もあると主張する人もいる。それがオカルトである。オカルトとは、つまり五官と時間の囲い込みを超越しているという意味である。
 
 さてさて、難しい世界に入ってしまった。象の皮膚の皺についている寄生虫は本当にそれ以外に何も見えないのか、見ようともしないのか、それで満足しているのか。毛虫も他の木に住もうともせず、満足しているのか。どちらも満足して生きていられれば、それに越したことはないだろうが、哲学者は鳥や虫の立場から見る世界もあるというのだ。
 この寄生虫にとって象の皮膚の皺は「自分そのもの」であり、毛虫の木も「自分そのもの」であり、初めに皺や木が存在しているのではなく、すでに寄生虫や毛虫が存在している。それぞれの生きている世界はそのもの(人間)が生み出したものを見ることができるという。これを人間に当てはめてみると、五官で認知できるすべてのものは「人間(私)」の構成分の一つであり、「私」が初めに存在しているということになる。心が今までの心の歴史からそういう見方の世界を生み出すーーーこれがハイデガーの「世界内存在」の定義というべきもののようである。
 私が興味を抱いたのは、それぞれの生物は「生きていく世界」を有しているが、それがそれぞれにどんな「世界」なんだろうか。例にあげられた象の皮膚の皺に住む寄生虫の「世界」も知りたいものである。「私」の周囲のものはすべて私自身であるという「視点の転換」もいつかきっと分かる時があるかも知れない。分かっても「それがどうした」と、また迷うかも知れない。超能力のオカルトを追求しようとは思わないが、五官の世界から脱出しようとする可能性だけは追究したいものである。        定価720円(税別)

知的余生の方法 (新潮新書)

知的余生の方法 (新潮新書)