読書アラカルト(19の2)「文士の風貌」井伏鱒二著 福武文庫

 夏目漱石(1867〜1916.12.9) 雑司ヶ谷墓地の漱石のの墓は、私が上京当時には西側の大きな銀杏の木のそばにあった。高さ一丈ぐらい、六寸角の白木の墓標に「夏目金之助の墓」と書かれていた。そのころ私は雑司ヶ谷墓地を自分の散歩区域に入れていた。大正七年か八年か確かなことは覚えていないが、現在の漱石の墓ができた。ある日、私が西側の出入り口から墓地に入って行くと、漱石の墓標のあったところが掘り返されて赤土が乱雑に盛り上がっていた。何ごとかと思って見廻すと、今日は漱石の墓が改葬される日だということに気づいた。私も脱帽して葬列に入った。葬列の久米さん、芥川さんはすぐ分かったが、森田草平、野上豊一郎、安倍能成小宮豊隆というような新進文学者もいたはずである。
 *きょうは夏目漱石が没して99年の命日に当たる。来年は100年の節目になる。
 太宰 治(1909〜1948) 太宰くんの家出の報は意外であった。私は衝撃を受けた。しかし、なぜ死んだかその真相は私にはわからない。なぜあんな形式をとったのか。なぜあんな場所を選んだのか。これも私には分からない。あれこれと想像をめぐらすだけである。新聞記者にたづねられても困るだけであった。世間では太宰くんの死を、情死だと解している向きもある。いま私は、それを反駁するほどの材料を持たないが、いずれ反駁する必要がないときが来るかもわからない。形の上では情死である。そして彼が、こんなことを言っていたという人もいる。「僕は、自分の一ばん軽蔑する死にかたをするつもりだ。」これは太宰くんのアイロニーにしても、それの実現を怖れていたためかもわからない。
 亀井勝一郎(1907〜1966) 亀井くんは太宰くんと家も近くて親しかった。その関係で太宰くんが、亀井くんを酒飲み友達として私に紹介してくれた。ちょうど太宰くんが亀井くんの蔵書を借覧していたころのことで、亀井文庫(実際は応接間の書棚)の恩恵にあづかっていたいると言っていた。かれこれ一年半ほどの間、取りかえ引きかえ太宰くんは亀井文庫の日本の古典を読んでいた。

 著者は、その当時すでに文豪と呼ばれているたくさんの先輩たちや後に文豪になる若い文士たちとも接していて、それぞれの人間関係や個人的には普段の生活の様子などを克明に記している。それは発表された小説だけでは知ることができない作家のバックグランドとして興味深い。太宰治を「太宰くん」と呼ぶ人を私は他には知らない。漱石の墓の改葬に立ち会ったことや太宰治の死に直面するなど生き字引的存在である。明治,大正、昭和初期の文豪の素顔を後世に残した功績は貴重であると思う。