寛容

 私はこの言葉が好きで、若い頃から「座右の銘」にしている。自分自身、「寛容」を受容し自分のものとして取り込んでいるからではなく、未だに全く受容していないことから人生の「達成目標」として、座右の銘にしている。ちなみに、寛容とは「(失敗などをとがめだてしないで)他のいい面を積極的に認めようとする様子」(新明解国語辞典 三省堂)という。
 先般、参院選挙が終わり、今は東京都知事選挙中であるが、その背景には保守と革新があり、双方が、互いに批判するだけが目的の「アンチの論理」を繰り返している。どちらも自分たちの主張が取り上げられないというルサンチマン(怨恨)があるから攻撃し合う。人間は過ちを犯しやすい存在であり、自分も間違えているかもしれない。だから意見の違う相手を排除するのではなく、寛容に耳を傾け、合意形成することを重視すべきである。(東工大教授 中島岳志さん)
 東京都の未来はどうあるべきか、そのために何が課題で、それをいかに解決していくかが、本来論戦すべきなのにアンチの論理のためにまともな議論が成立しない。日本の政治(家)の貧困さをさらけ出しているようで情けない。中島さんは政治のあり方として「この静かな日常を次の世代に受け渡すということが政治の最大の目標です。そのために永遠の微調整を続け、日々の暮らしを大切にしていくことが重要です」と論じている。アンチだけの論理は危険であり、寛容さを大切にして、合意への論戦を展開すべきとの主旨であろうかと思う。
 先般、子どものしつけと称して森林に我が子を置き去りにした事件があった。私は「子どもの問題は親の問題」という考えを示した(6月3日付ブログ)。匿名ブログなので、反論等を知ることはできないが、子育てに関しては親の関与を抜きにしては有り得ないので、まずは「親の反省」からスタートすべきではないか、という寛容さを求めたつもりである。とかく、目の前の事案に気を取られて子ども(当事者)だけを責め立てることになりがちである。
 結婚の場合、相思相愛の仲で結ばれても、時間とともにそれだけでは夫婦仲を維持することは難しい。寛容さがあれば、離婚や不仲を是正する可能性があると思う。また、親子、きょうだいの不仲についても同じようなことが言えると思う。「人間の理性は不安定で、どんな優秀な人間でも世界すべてを把握することはでず、必ず間違いを犯す」(18世紀英国の思想家 エドマンド・バーク)という説を引用すれば、まずは自分自身を戒めることだ。これも寛容さの表れであると思う。
 寛容さは年齢とともに培われるようにも感じる。個人差はあると思うが、いかにも高齢なのにそのかけらもないとすると恥じなければならないだろう。ともかく、私は高齢者、寛容な人間に近づきたい。 
 
     コリウスヒルガオ科)          アメリカンブルー(シソ科)