今年の漢字は「税」、我が家にあっては「仏」。
 母がこの20日未明、ローソクの火が消えるが如く息を引きとった。お世話になっていた老人ホームと母の終末期について協議をして、「極端な延命処置はしない」ことにしていた。結局、一切誰の手も借りずに、苦しんだ様子もなく、眠っているような表情で一人で旅立った。享年98歳、いかにも母らしい。
 亡き母は、大正、昭和、平成の3つの時代を駆け抜けた。昭和40年前後、二人の娘がそれぞれ結婚して、やがて孫たちに恵まれ、それ以来、孫の成長を見守るのが最大の楽しみであり、最も幸せな時代であったように思う。子や孫の誕生日や入学・卒業の節目には必ずお祝いをしてくれた。
 亡き母は、戦前、戦中、戦後という3つの時代をも生きてきた。中でも、昭和19年、最愛の夫が外地で戦死し、帰らぬ人となった。母、27歳、長女6歳、次女2歳。母にとって、この上ない悲しみと、苦しみに苛まれる人生を余儀なくされた時代の始まりであったが働きながら自立し、二人の子どもを育て上げ、昭和のいい時代を迎えたのである。
 仏壇を整理していたら、戦地の父から届いた母宛の手紙(はがき)が十通ほど出てきた。とても真っ当に読む心境になれなかったが、子どもを案ずる気持ちと、留守をよろしく頼む、というくだりがどの手紙にもある。はるか南の島で家族を案ずる夫と留守を預り夫の無事を祈る妻・・・・。そして、子どもたち・・・。あまりにも過酷である。
 年々、少なくなっていく「戦争未亡人」。しかし、亡き母から一度も戦争のことを聞くことはなかった。思い起こすだけでも辛く、暗い気持ちになるから自ら「封鎖」してしまったのかも知れない。そんな亡き母を見るにつけ戦争という悍ましさを繰り返してなならいと思うのみである。
 70年ぶりに黄泉の国で再会を果たした夫と妻。どんな会話をしているだろうか。子どもや孫、ひこ孫のことばかりかな。