夕焼け小焼け

 わが街では4月1日から市内各所に防災行政無線を設置し、緊急災害時に防災情報を同時放送することになった。ふだんは、正午にはウェストミンスター寺院の鐘の音、午後6時には「夕焼け小焼け」のメロディが流れてくる。常時、放送は「鐘の音」と「メロディ」だけであって欲しいと願うのみであるが、我が家では「夕焼け小焼け」の童謡に格別な思いがある。
 この曲の作詞は、詩人であり童謡作家の中村雨紅(1897〜1971)である。雨紅は、当時の東京府南多摩郡恩方(おんがた)村上恩方(現在の八王子市上恩方)の出身。八王子から陣馬街道へ向かう途中の山村であったが、今でも街道沿いにきれいな水の小川があり、たくさんのお寺があり、閑静な住宅街になっている。
 妻が2歳の時、ニューギニアのハルマヘラ島で戦死(行年37歳)した父(私の義父)の実家が、同じ恩方村にある。妻や母、我が子を連れて何度も恩方を訪れているが、母はもとより皆恩方が気に入っている。実家の兄に当たる伯父が存命の時、「子どものころ雨紅(本名、高井宮吉)とよく遊んだよ」と思い出を話してくれた。勿論、「夕焼け小焼け」の童謡のことも。
 この歌の詞は、1919年(大正8年)、雨紅が22歳の時に作詞し、4年後の1923年に草川信が作曲し世に出たのである。ちょっぴり寂しく、山深い田舎の夕暮れを唄った叙情的な歌詞にゆったりとして、歌いやすい美しい曲がついた。父も出征(1944年)するときはこの歌を知っていたはずである。
 夕焼小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘がなる お手々つないで皆帰らう 烏と一緒に帰りませう(原詞)
 父の実家を訪ねた時、確かに夕方になると早々に日が落ちてあちこちからお寺の鐘の音が響きわたり、雨紅が作詞した当時の光景が目に浮かんだ。雨紅はこの村に生まれ育ったが、東京へ出かけるときは八王子駅まで16kmも歩いたという。道すがら、子どものころから蓄積してきた恩方の光景や子どもたちの遊ぶ姿や小鳥たちの啼き声が作詞へと赴かせたのであろう。
 ところで、この詞に出てくる「鐘の音」はどこのお寺のものか、という「鐘の本家争い」が少なくとも3つのお寺の間で昭和40年代にあった。存命中の雨紅は「どこという特定のお寺の鐘の音を唄ったものではない」と自ら執筆した随筆で述べた。それで争いは決着したが、いくつかのお寺には「夕焼け小焼けの鐘の寺」を自称している。
 母は96歳になり、老人施設でお世話になっているが、亡き夫のことも、娘である妻の顔も名乗らないとわからなくなった。それでも、面会に行き、妻と一緒に「夕焼け小焼け」を唄うと手拍子をしながらうれしそうに聴いてくれる。母を八王子の恩方へは連れていけないのでこの歌でその償いをしている。
 これから毎夕流れてくる「夕焼け小焼け」のメロディは戦死した父の鎮魂歌であり、戦争未亡人である母にとっては恩方への郷愁の歌であり、亡き夫を供養する歌であろうと思う。


❏「4月」の異称・・・・卯月、余月、陰月、鎮月、陽月、正陽、農月、梅月、花残月、初夏、孟月、立夏麦秋、仲呂、清和