読書アラカルト(10)「スターバト・マーテル」篠田節子著

 40代半ばの主婦・幸村彩子は自宅マンション近くの会員制プールに入会し、そこで偶然、30年ぶりに中学時代の同級生・堺光洋に会う。中学時代、光洋は容姿、成績ともに優れていたが、かえってそのために孤立気味だった。彩子も集団が苦手で仲間を作れなかったことから光洋の存在は救いでもあった。

スターバト・マーテル

スターバト・マーテル

 「淡い灯りに照らしだされた水は静かに揺らめき、自分の体の立てるかすかな水音が、生ぬるい温度とあいまって、ゆるゆるとした眠気に誘い込んでいく」。彩子は死の世界はおそらく黒ではなく、こんな透明な青だろう、と思うようになった。彩子は1年前に乳がんの手術を受けてから、「死」というものが体感の内に現実味を帯びて忍び込んで以来、ず〜っと死の観念が居座り続けている。
 光洋は一流高校に入ったものの、一流大学には進学できずアメリカの大学へ。そこも中退し挫折している時に、旧財閥系のハイテク企業に就職し、11年ほどロンドンにいて、海外での実績を認められ今は事業部長をしている。
 お互いに中学卒業後のことは何も知らずじまいだ。彩子は離婚して間もない祐介と結婚し、子どもはいないが夫婦としても経済的にも恵まれた生活を送ってきた。一方、光洋は会社ではエリートコースから外れ、度重なる海外単身赴任を強いられ、その間に中学生の息子が自殺。妻は未だに息子の死を認められず、探し求めている。部長になった光洋は海外の会社にハイテク機密文書を漏洩し、それがイスラエル軍の殺戮兵器に使われた嫌疑をかけられ、警察に追われる羽目に。
 会社は光洋を匿うために札幌へ出張させる。それを知った彩子は光洋の身を案じて日帰りで札幌へ向かい、会う。そこから二人はレンタカーで雪深い札幌郊外で逃避行を始める。スリルとサスペンス、作者の独壇場だ。
 作者、篠田節子はその時代の社会状況を反映した小説が得意だ。あのワンちゃんの「逃避行」もそうだった。ここでは、熟年の恋、子どもの不登校、いじめ、子どもの自殺、単身赴任、国際機密漏洩、国際企業犯罪などがリアルに扱われているが、やはり「恋愛」が中心概念であると思う。
 社会状況は年々歳々変化していくが「恋愛」は古今東西、老若男女ともに最大の関心事だ。それ故に、嫉妬があり、裏切りがあり、事件事故の元になり、殺人にも発展していくことにもなる。しかし、「恋愛は心と心の通路の最短距離である」という名言通り、人生を豊かに充実させ、楽しく彩ってくれる期待は信じていいと思う。
 「スターバト・マーテル」では「熟年の恋」はどう展開するか。彩子と光洋の死生観は?などを思い巡らしながら勝手にストーリを描くがことごとく外れ、気がつくと最終ページに。どんな結末を迎えるか、ぜひ、ご一読のうえストーリーを楽しんでいただきたい。
 なお、書名の「スターバト・マーテル」とは光洋の車のCDから流れていたクラシック曲名(イタリア)から採ったものである。また、本書は、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、文庫化した名作で、定価619円+税。