秋の句

 この夏は猛暑が続いたが、8月下旬から「残暑」という日がほとんどなく9月が終わろうとしている。また、集中豪雨やとてつもない強風の台風が多くなった。これは地球の排気ガス等による温暖化が原因であると言われているが、自然界の本当の夏の暑さはどのくらいで、本当の初秋の訪れはいつ頃なのか知りたいものである。
 そこで昔の俳人が詠んだ「秋の句」から、季語を通して、自然界の変化を探ってみることにする。昔は今よりも四季の区別がはっきりしていて、数日と違わず移り変わっていったので、迷うことも、違和感もなく安心して自然と付き合えたのではないか。

 流灯の帯のくづれて海に乗る 阿波野青畝(せいほ) 明治32(1899)年生まれ
 雁や残るものみな美しき   石田波郷(はきょう) 大正2(1913)年生まれ
 頂上や殊に野菊の吹かれ居り 原 石鼎(せきてい) 明治19(1886)年生まれ
 白壁に蜻蛉過ぐる日影かな 黒柳召波(しょうは) 享保11(1727)年生まれ
 「流灯」は、夏のお盆の風物詩的行事の一つだが、ここでは盂蘭盆が舞台のようで「秋」。ちなみに「8月」は秋の季語。「雁」は、今でも秋になると列を組んで日本へ渡ってくる。「雁」も「渡り鳥」も秋の季語。昔は「野菊」はまさに代表的な秋の花。「蜻蛉」(とんぼ)は秋の季語であるが、300年前も秋のこの時期に生息していたのだろうか。
 しばらくは風を疑ふきりぎりす 橋 かん石(かんせき かん、は門構えに月)明治36(1903)年生まれ
 月天心貧しき町を通りけり 与謝蕪村  亨保元(1716)年生まれ  
 曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて 野見山朱鳥(あすか) 大正6(1917)年生まれ
 三千の俳句を閲し柿二つ 正岡子規 慶応3(1867)年生まれ
 秋風の中で生まれるという「きりぎりす」。「月」は新月、三日月、立待月、名月、などともに秋の季語。きのうは十五夜の「お月見」だった。曼珠沙華は秋の彼岸の頃に咲くのは同じであるが、今はこの辺りでも8月中・下旬には見かける。「柿」は今でも秋の果物として重宝がられている。
 小豆、かぼちゃ、芋、スイカなども秋の季語。今はスイカは真夏に冷やして食べているが、本来の収穫は秋であったということに気付かされた。それらは、気象の変化により、発芽が早まったり、また、人間も早期に種を蒔くようになったために、夏早々に見かけるようになり、季語とはズレを感じてしまうのだろう。
 近年の気象を一昔との対比で言うと「温暖化」という表現で説明がつく。俳句の世界では、「季語」が証明してくれたように思う。季語は大自然の営みをもとにして決めてあるので、その季節感が原点であることを後世にも伝えていかねばならないと思う。

 今が盛りの曼珠沙華。夏からついこの間まで咲き誇っていた朝顔(どちらも秋の季語)